2011年12月9日金曜日

平成23年12月8日(木)くもり時々雨

店ブログという形で発信しているのだが、店のことは書いたことがない。何故か?

店で何を仕入れた、新しい酒が入荷した、といった情報がお客様の来店動機に必ずしも参与しているのではない事を体験的に知っている。どんなに店のことを延々と書いてもそれを書いている、人となり人物が浮かんでこないとそれはただのチラシではないかと思う。

なので、私個人の日常を書き綴っている。それは公開して人に読まれることを前提に構成しているので起こる出来事を包み隠さず書くというわけにはいかぬが、少しでも自分を晒すことにより読んでいただける方との距離が近くなれば良いと考えている。

距離が近いというのは昔から言う「遠くの親類より近くの他人」に通じる。人というのは血縁の深さより誰と深く繋がっているかが重要だ。仕事の一環のつもりで始めたが、不思議なもので毎日のように書いていると筆が滑らかになっていくように感じる。車のエンジンと同じだと妙な所で感心する。

12月8日というのは真珠湾攻撃の日でありジョン・レノンが撃たれた日でもある。毎年この日はこの二つの出来事を思い出す。思い出すと言っても真珠湾の方はもちろんまだ生まれていない。私はその頃、海のプランクトンか何かで、それを魚が食べ、その魚を親父が食べ、蛋白質になり、某所に蓄えられ、紆余曲折を経て今の私がある(笑)。

その魚を食した親父は満州の北方でソ連軍の捕虜となりタイセット収容所という極寒の地で四年近くを過ごした。

「俺は体が小さかったから生き残れた、配給される食料が足りなくて体の大きい奴から弱っていった。日本に還る頃は三分の一しか生き残っていなかった」と言葉少なに語ったことがある。

その父も鬼籍の人となり十数年が経つ。

父と同い年1915年(大正4年)生まれの石原吉郎という詩人がいる。石原氏もシベリアに8年間抑留された。作品『葬式列車』は初めて接したときは心が震えた。

葬式列車

なんという駅を出発して来たのか
もう誰もおぼえていない
ただ いつも右側は真昼で
左側は真夜中のふしぎな国を
汽車ははしりつづけている
駅に着くごとに かならず
赤いランプが窓をのぞき
よごれた義足やぼろ靴といっしょに
まっ黒なかたまりが
投げこまれる
そいつはみんな生きており
汽車が走っているときでも
みんなずっと生きているのだが
それでいて汽車のなかは
どこでも屍臭がたちこめている
そこにはたしかに俺もいる
誰でも半分はもう亡霊になって
もたれあったり
からだをすりよせたりしながら
まだすこしずつは
飲んだり食ったりしているが
もう尻のあたりがすきとおって
消えかけている奴さえいる
ああそこにはたしかに俺もいる
うらめしげに窓によりかかりながら
ときどきどっちかが
くさった林檎をかじり出す
俺だの 俺の亡霊だの
俺たちはそうしてしょっちゅう
自分の亡霊とかさなりあったり
はなれたりしながら
やりきれない遠い未来に
汽車が着くのを待っている
誰が機関車にいるのだ
巨きな黒い鉄橋をわたるたびに
どろどろと橋桁が鳴り
たくさんの亡霊がひょっと
食う手をやすめる
思い出そうとしているのだ
なんという駅を出発して来たのかを













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