2013年1月9日水曜日

平成25年1月8日(火) 晴れ

午前中の早い時間九時前だが二件電話連絡をして確認をする。用件は全く別々なのだが時期が重なっていてどちらも最優先事項である。

きのう飛び込んできた報せに対する気の重さは、二重拘束のようなもので、相反する二つのメッセージを同時に同じ相手から受け取ると、受け取った側は混乱して対応に窮するというものである。分かりやすく言えば、足を踏まれながら同時に相手に頭を撫でられているような感覚だ。

私の憂いは同一者からの発信ではないが、きわめて短期間に、長男の慶事と世話になった叔父の弔事が重なったことからくるストレスで、ある種のダブルバインドだと思う。

人の死は亡くなった方が高齢の場合、血縁者であっても「人は皆死ぬ」という当然の常識により通過儀礼的な受け止め方も少なくないし、今回の私もそうではあるのだが、そうであってもその余韻はしばらくは残るものである。

そういった余韻が徐々にフェイドアウトしてゆく時間はその付き合いの親疎にもよるが、喪に服すという儀礼規範もあり、すぐ次に控える慶事の気持ちに簡単に切り替えられるものではない。今日沈痛な表情で過ごして、一晩寝れば喜色満面、呵々大笑とはいかない。

明日九日は友引で葬儀はできないので十日が告別式となる。十二日が長男の結婚式が予定されている。

そして実は、今ここには書けない別の、ある事を抱えていてそれが昨年の六月末から通奏低音のような形で私の生活の一部になっている。それが日常にもなっている。

日常というのは旅行や催事など非日常の対極にあり普段の生活であるが、人はそれぞれ生活している中で節目があり、大小の変化を自ら選択したり、置かれた環境に支配されたりしながら日常を更新して生きている。

どんなに喜ばしいことも、どんなに悲しいことも同じ状態が永く続くことはない。それを無常というのだ、と瀬戸内寂聴さんが優しく語っていた。

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