2014年3月14日金曜日

平成26年3月13日(木) 雨一時激しく降る(春一番の日)

朝刊に目をとおしていて、大西巨人の訃報を知る。まだ生きていらっしゃったんだ。氏の著書『神聖喜劇』は二十代で一度だけ通読した。文庫本で五巻と、かなりのボリュームで晦渋な文章なのだが、物語の面白さに引き込まれ電車を乗り過ごした記憶がある。

朝昼兼のごはん。


鮭とゴマで味が付いたごはんなので、おかずは無くてもよさそうなものだがそれだけでは物足りないのでベーコンエッグも一緒にいただく。

雨が降っていて風強く春一番のようだ。さすがに今日は野川には行かない。春を迎えて野川の渡り鳥もあとひと月もすれば北へ帰ってゆくだろう。

渡り鳥の北帰行では面白い話がある。

雁風呂(がんぶろ) 以下wikiより引用

日本に秋に飛来するは、木片を口にくわえ、または足でつかんで運んでくると信じられていた。渡りの途中、海上にて水面に木片を浮かべ、その上で休息するためであるという。日本の海岸まで来ると海上で休息する必要はなくなるため、不要となった木片はそこで一旦落とされる。そして春になると、再び落としておいた木片をくわえて海を渡って帰っていくのだと考えられていた。旅立ちの季節が終わりもう雁が来なくなっても海岸にまだ残っている木片があると、それは日本で死んだ雁のものであるとして、供養のために、旅人などに流木で焚いた風呂を振る舞ったという。

引用終わり

この話を元に仕立てた落語「雁風呂」がある。

以下「落語あらすじ辞典 千字寄席」より引用

かの有名な黄門、水戸光圀(みつくに)公。
ご隠居の身の気軽さで、
供そろいわずか八人を引き連れて諸国を漫遊中、
東海道は掛川の宿に来かかった。
ある質素な、老夫婦二人だけでやっている立場で休憩し、
昼食をとっていると、
田舎のことで庭に肥桶(こえおけ)が置いてあると見え、
プーンと臭い匂いが漂ってくる。
さりとて、障子を閉めてしまうと陰気臭くなるので、
屏風(びょうぶ)か衝立(ついたて)を持ってくるように
おやじに言いつける。
恐縮したおやじが運んできた屏風の絵を見て、驚いた。
こんな粗末な立場にあるとは思えないような、土佐光信の屏風絵。
ただ、図柄が変わっていて、松の枝に雁。
屏風は一対だから、別のには松の大木が描かれてあろうと思われる。
松には鶴、雁には月を描くのが普通。
ははあ、光信の奴、名声におごって、何を描いてもよいと増長したか
と光圀公、不快になって、
帰館のあかつきには光信の絵はすべて取り捨てる
と言いだす。
そこへ相客。
上方者らしい、人品卑しからぬ町人の、主従二人連れ。
主人の方は屏風絵を見て感嘆し、
「さすがに光信さんや、松に雁とは、風流の奥義を極めた絵やなァ。
これは秋の雁やのうて、春の帰雁や。
何も知らん奴が見たら、雁頼まれたら月を描き、
鶴なら松を描くと思い込むやろが、
そんな奴は眼あって節穴同然や。もう、他に二人とない名人やなァ」
聞いた光圀公、自分の不明を思い知らされ、
町人ながら風流なる者と感心して、
近習に命じて男を呼ばせ、松と雁の取り合わせの由来を尋ねた。
始めは、えらいことがお武家様のお耳に入ったと恐縮していた町人、
たってと乞われて語り出したところによると、
雁は海の向こうの常盤の国という暖国から渡ってきて、
冬を函館の海岸で過ごし、春にまた帰っていくが、
大きく体が重い鳥だから、
海を渡る途中に墜落して命を落とすこともたびたびある。
海上で体がくたびれると、
常盤の国を出る時くわえてきた枝を海に落として、
それを止まり木にして羽を休め、
またくわえて、ようやく函館の松までたどり着く。
松に止まると、枝をその下に落として、
春まで日本全国を飛び回るが、
その間に函館の猟師たちが、枝の数を数えて束にし、
雁が南に帰る季節になると、また松の下に、その数だけ置いてやる。
雁は自分の枝が分かるので、帰る時に各々それをくわえていく。
猟師は残った枝を数え、
ああ、またこれだけの雁が日本で命を落としたか、哀れなことだ
と、その枝を薪にして風呂を炊き、
追善のため、金のない旅人や巡礼を入れて一晩泊め、
なにがしかの金を渡して立たせてやる。
これはその時の、帰雁が枝をくわえようとしている光景だという。
すっかり感心した光圀公、身分を明かし、
そちの姓名は何と申すとご下問になる。
町人、びっくり仰天して、額を畳にこすりつけながら、恐る恐る
「私は大坂淀屋橋の町人で、分に過ぎたぜいたくとのおとがめを受け、
家財没収の上、大坂三郷お構いに相なりましたる、
淀屋辰五郎と申す者にござります」
と言上。
昔、柳沢美濃守さまに三千両お貸ししたが、
ずっとお返しがなく、今日破産し浪々の身となったので、
なんとかお返しを願おうと、供を連れてはるばる江戸までくだる途中
と聞いて、光圀公、雁風呂の話の礼にと、
柳沢に、この者に三千両返しつかわすようにという手紙を書いてやり、
その金でめでたく家業の再興がなったという、一席三千両のめでたい噺。
【うんちく】
オチがつく上方バージョン
「水戸黄門漫遊記」を題材にした講談をもとに
作られた噺のようですが、
はっきりしたネタ元は不明です。
もともとは上方落語で、
別題を「天人の松」ともいいますが、
上方版ではオチがついていて、
「雁風呂の話一つで三千両とは、高い雁(かりがね=借り金)ですな」
「そのはずじゃ。貸金(かしがね)を取りにいく」
とサゲます。
現在、この噺を得意にしている桂米朝は
「雁風呂の講釈をしたおかげで、借金(ここはシャッキン)が
取れますがな」
「そらそうや、かりがねの話をしたんじゃ」
と、しています。
このオチの部分の原話は、
最古の噺本として知られる安楽庵策伝(あんらくあん・さくでん)著
「醒睡笑」(寛永5=1628成立)巻一の
「祝ひ過ぎるも異なもの」とみられ、
「借り金」=「雁がね」の、
まったく同じダジャレオチがみられます。
東京は円生の専売
明治の落語界で三遊亭円朝と並び称された
人情噺の巨匠・初代談洲楼燕枝の速記では、
このあらすじの通り講談に近い形をとり、
オチはついていません。
戦後は、六代目三遊亭円生が
大阪の二代目桂三木助直伝で、
オチのある上方系のやり方で演じました。
そのほかに演じ手がなかったため、
速記、音源とも、残されているのは
上方の米朝版を除けば、円生のもののみです。
円生の芸談
「この噺でむずかしいところというと、
副将軍である光圀公の描写、
また辰五郎というのは
大阪では有名な金持ちの息子ですから、
言葉つきから何から品が悪くてはいけません。
これを第一に心がけるということが
大事だと思います」
引用おわり
三遊亭圓生の高座はYouTubeで観ることができる。
圓生 雁風呂

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