2012年11月10日土曜日

平成24年11月9日(金) 晴れ

ここのところブログの更新は翌日の午前中にすることが多い。前日のことを反芻しながら書くのだが大体は平凡な日常であるからたいして書くことはない。意識しなければただ流されるばかりの毎日だからこそ平凡な毎日をブログに刻むことは意味があると思う。それは読者が書き手の自分ひとりだけであっても過去の自分に会うことができるという効用がある。ほんの数ヶ月前のできごとでも読み直すと懐かしかったりする。

店の営業中、テレ東『たけしのニッポンのミカタ』を観ていた。今日のテーマは「ニッポン人らしさよ、どこへ行った!?」だ。こういうテーマは面白い。古来より繰り返されてきた今時の若い連中はなっとらん云々話に近いが時代の変化を再確認できる。街頭アンケートで「どんな時に親のしつけがなってないと感じるか」や「若者のこの言い回しが気に食わない」など中高年なら誰でも一言くらいは言うことがあるアンケートだった。ちなみに若者の言い回し第三位「ぶっちゃけ」・第二位「そーっすね」・第一位「やばい」だった。これは対話における日本独特の暗黙の規範が希薄になってきているのとその習熟度の遅れ、幼稚化を意味しているのではないかと思う。

少し古い論文だが面白いので部分引用する。

『日本語の自称詞』●対人関係における自己規定の問題 鈴木孝夫

ヨーロッパ語で話が行われるときは、人は、自分が話し手であるか聞き手であるかの役割さえ確認していればよいので、自己のあり方と他者(相手)の相関関係を情報としていちいちとり入れる必要はない。ところが、日本語で話をする場合には、自分がどの特定の相手と話をするかによって、自分が用うべき適当な代名詞(広い意味で)を選択しなければならない。しかも、この代名詞の選択とは、単に代名詞に止まらず、いわゆる敬語体系という非常に複雑な言語体系の選択と直結しているのである。特定の場面での具体的な相手が出現しない限り、話者の自己は少なくとも言語的には未定で開いた状態にあることは、次の例を考えてみればわかる。一人の男は、自分の子どもに対しては「パパ」いう一人称を選ぶことで、使用する一連のことばから、動作態度にいたるまで決定される。ところが甥が遊びにくれば自己を「おじさん」として規定することになる。この男が教師を職業としていれば、生徒にむかえば自分を「先生」と称することで、この場の自己規定が成立する。同僚に対しては「僕」、校長に対しては「私」とかしこまる。要するに具体的な相手が現れて、はじめて言語的な自己規定が行われる。そしてこの規定は、言語だけに止まらず、態度動作や心的状態にも一貫した影響を与えることが重大な点だ。 
 講談社現代新書280『論集・日本文化②日本文化と世界 梅竿忠夫+多田道太郎編』より

引用終わり

つまり日本語における対話は話し手同士の親疎の度、年齢の差、男女の別、などの具体的人間関係に基づいて選択が決まる、口の利き方が決まるのだ。

今の若い人達はその極めて日本的な気遣いが苦手なのだろう。




日暮れ前の三鷹駅周辺

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