2014年6月3日火曜日

平成26年6月2日(月) 晴れ 「独りの山歩き」

週二回くらいの割合で山に行っている。ピッチャーのローテーションの中4日、中5日より間隔が短い。間隔だけでいえば比叡山の千日回峰行みたいになってきた。間隔だけでいえばね(笑)。

裏高尾のだれもいない静かな小径を歩いていて、山の空気に包まれているとき、心も時間も全くの等身大になっていることを感じてすがすがしい。世間での自分の役割とは無縁の世界、山と、今歩いている己の生の肉体があるのみの単純明快な時間に心をあずけられることが快適なのだ。

男も女も人は歳を重ねて、世間においては地位や名誉、財産など、私的な家族や縁戚においてはだんだんと変化する役割など、見えるもの見えないもの、いろいろなものが体にペタペタと貼り付いてきて、それらを含めてそれが人というものだろうが、そうして社会の中で人は、特に男は小心をひた隠して原寸大の自分から遠ざかってゆく。女は知人の幸せを妬み、知人の不幸を澄ました顔でほくそ笑むようになる。

しかし人には、たとえ表面上は見えなくとも、無垢な部分、子供の心の領域というのは経年劣化してガタがきているとはいえ、それ自体光り輝いているものだから、けっして汚れず残っているのでないかと私は思うのである。

その子供の領域を楽しむことを趣味というのならそうなのかもしれない。

しかし同じ趣味同士が集まりそこに新たな社会が構成されるとき、人の軋轢が生まれたりする。私はそれを好まないゆえ、若い頃から群れることは極力避けてきた。なので、そういったグループと呼ばれるものに所属したことは一度もない。

少年や少女の頃味わった、何かに夢中になって何も考えない、忘我の状態に、一時的に戻ることを助ける役割、私にとってそれが今のところ「独りの山歩き」なのである。

と、言葉を探して理屈をこねておいて、昼ご飯は空っぽの冷蔵庫にあった納豆で和風パスタにする。

「思索」と「納豆」の落差の大きいこと(笑)。



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