2011年10月31日月曜日

平成23年10月30日(日) くもり夕方一時小雨

昼から思い立って武蔵野美術大学の芸術祭に行った。私の出身校でもなく、知り合いに関係者がいるわけではないので事情を知らぬまわりは、何故また急に?と思うのが自然だ。

実は、半年ほど前に経年劣化で老朽化した店のシャッターを新しくした。以前は、カッティングシートを自分で加工して簡単なイラストと立ち飲みというサインを表示していた。現状は何も書いていない。何か表示しなくてはと思っていたのだが、一日延ばしになっていた。

そこで浮かんだのがシャッターアートだ。プロの看板屋に頼むのも一案だが面白味がない。自作という手もある。絵を描く事は好きなほうだが本当の自画自賛になるのは見えているので置いておく。

それで美大の若い才能を店のシャッターに残してはどうかと考えたのだ。交渉はともかく美大がどんな所なのか興味がわいたのと、たまたま文化祭シーズンで日にちが合った。とりあえず今回は様子見ということで行ってきた。













焼き物の作品はデパートで売っていてもおかしくないような出来だ。素晴らしい!美大おそるべし。

学生さんにチームを組んでもらい楽しく描いてもらえればよいのだが、交渉はどこを糸口にするのかを考えなくては、なにせ全く知り合いはいないもので(笑)。


2011年10月28日金曜日

平成23年10月28日(金) はれ

 北杜夫が亡くなられた。著名人なので敬意を払い呼び捨てにさせていただく。
初めて氏の著作にふれたのは、『どくとるマンボウ昆虫記』だったように思う。

本に書かれてあるウスバカゲロウの話。彼が小さい頃の話として【幼い頃からその名前だけは知っていた。しかし、ウスバカゲロウが「薄翅蜻蛉」であるとはつゆ知らなかった。てっきり「薄馬鹿下郎」だと思いこんでいた。そいつはのろのろと飛び巡り、障子にぶつかってばかりいたからだ。今となっても、「薄馬鹿下郎」の方がどうしても私にはぴったりする】

私がたしか中学生のころだったがその軽妙なユーモアになんと頭の柔らかい少年なんだろうと強く印象に残ったのを憶えている。しばらくして読んだ『怪盗ジバコ』は、着想の奇抜さスケールの大きさに圧倒された。

この『怪盗ジバコ』の後発で、モンキー・パンチの『ルパン三世』が世に出る。『怪盗ジバコ』が、人気シリーズになった『ルパン三世』の以前にパイオニアワークとしてこのジャンルを拓いたと感じているのは私だけではあるまい。この作品の挿絵は谷内六郎だった。今の若い人は谷内六郎をほとんど知らないのではないかと思う。子供の声で「週刊新潮はあした発売です」のCMは昭和20~30年代生まれなら分かるはずだ。その週刊新潮の表紙の絵が谷内六郎だった。

北杜夫は作家と精神科医の肩書きがある。同世代には、なだいなだ・加賀乙彦など同じ肩書きをもつ作家がいる。なだいなだは精神科医としての著作が多く、加賀乙彦は精神科医としての体験を下敷きにした小説が多い。どちらも好きな作家だ。

加賀乙彦の「頭医者シリーズ」は軽いので好きでよく読んだ。しかし、加賀の『宣告』は重い。20代後半に読んだが、死刑肯定か否定かというテーマを突きつけられる重い内容に、今も悩ましい。

話が飛んだが、北杜夫の「どくとるマンボウ」シリーズは面白くて大好きだった。 合掌

そうそう昨日は、突然店を休んでしまい申し訳ありません。
実は鬼の霍乱、カミさんが風邪を悪くして起きられなかった。急だったので人の手配もつかず仕込みも間に合いそうになかったので、仕方なく閉めることに。Orz

2011年10月27日木曜日

平成23年10月26日(水) 晴れ

今日は風が強く気温も昨日ほど上がらない。歩きによる筋肉痛はほぼ消えたので、もう歩くことは苦にならない、というよりこれを待っていた。いったん動き出せば目的がしっかりしている場合続くことは経験的に判っている。大切なことは何を考えているか、ではなく何を実行しているかだ。

販売用の芝を作っているらしい

三鷹の有名店

店先の筆がなかなか迫力


東京では少なくなった銭湯、頑張って下さい!
歩きの良いところは思いつきで小回りがきくことだ。今日は裏道を選んで歩いた。もちろん知っている通りだが、改めてカメラでスナップ写真を撮るとその町の風情がよく判る。

ところで、昨日のここはどこでしょう問題だが、「三鷹表具店」で検索すると三店舗ヒットするが、そのうちの藤巻表具店の店先が答えだ。ちなみにGoogleストリートビューで上連雀6-1-2を見ると可愛いワンコが確認できる。

2011年10月26日水曜日

平成23年10月25日(火) はれ時々くもり

暖かいというより暑く感じる一日だった。脚の筋肉痛はまだあるが、ここで楽をすると元に戻るので歩きで店にゆく。


気温は高くとも確実に季節は進んでいる。


東八道路沿いの農園直売所、ごめんね、寝ているところ撮りました。




三鷹の、いや日本の誇り、世界の三鷹光器

もし、三鷹光器をご存じ無い方はググってください。あの~念のためGoogleね。


さて問題です。下の写真のわんちゃんオブジェはどこにあるでしょう?もちろん三鷹市です。

ヒント(三鷹にある表具店の店先)


昨日の瀬戸内寂聴さんの話の続きだが、人は「忘己利他」(もうこりた)が最も美しい行いであると。見返りを求めぬ行為はなかなか出来ることではない。それを今回の東北被災地では多くの若者がそれに参加している。日本はまだまだ大丈夫とおっしゃっていた。 同感。

2011年10月25日火曜日

平成23年10月24日(月)くもり

筋肉痛というのは使った筋肉がその負荷に耐えられるよう回復する過程の痛みと理解する。先日のいきなり往復10キロ徒歩の向こうずねの痛みがまだとれない。体を痛めつけるために始めたのではないので今日はバイクで店へ行く。当たり前だがワープしたように速い。

店を終わり帰宅してから録画していた「瀬戸内寂聴の東北青空説法」を観る。瀬戸内寂聴さんは徳島県の出身だ。個人的には徳島には色々と縁がある。

私の生まれは四国の高松だ。関東圏の方は四国の位置関係があいまいだと思うが、高松は香川県だ。徳島はとなりの県だが気候風土や人間の気質も地元感覚では明らかに違う。だいたいどこでも近隣比較が始まると独善的な身贔屓意見に収斂することが多いのでここでは多くは語らない。

生まれは香川県の高松だが、徳島は親の仕事の関係で小学校3年の半ばから中学卒業まで暮らした決して忘れることはない土地だ。

瀬戸内寂聴さんは、徳島市にある現在は男女共学の県立城東高校(旧女学校)をでておられ、私の友人も幾人かは出身者だ。

被災地で打ちひしがれた方々に対する寂聴さんの説法で心を打たれた言葉がある。

無常とは・・・、いつも物事は動いています。どんな辛いことでも同じ状態ではなく常にはなりません。どん底の生活も必ず変化があります。どん底という下の底は無いのだから上がるだけです。それを信じて笑顔をだしましょう。

そしてみなさんが生き残ったのは、「代受苦」(だいじゅく)といって死んだ方がみなさんの代わりになったということ、それが定め、「定命」というもので大きな摂理のなかで決められていたことであるから、家族を失った中、生き残った人間がなぜ自分だけが助かったのか?と悩む事はない。失ったものは決して帰らない、しかし死んでいった方を決して忘れないようにしましょうと、諄々と説かれていた。

今年89歳になられる、お元気でご活躍ください。

2011年10月23日日曜日

減量について

平成23年10月23日(日)くもりのち晴れ

久しぶりに10キロも歩いたので筋肉痛になると思っていたが、思ったほどではない。向こうずねの辺りに痛みがある程度だ。スケートをした後に痛くなるところだ。週末の金曜日、帰りは雨だったのでバスに乗った。

午後11時をまわると最寄りのバス停を通る便はないので、大沢十字路行きに乗り終点手前の大沢で降りる。最初は混んでいたが途中でだんだん空いてきて私が降りる頃は5,6人の乗客だった。住人は、大沢は陸の孤島と自嘲的に表現する。私はふだんエンジン付きの乗り物で移動することがほとんどなので不便と思ったことはないし、むしろ静かで好きな土地だ。

最寄りのバス停ではない大沢の停留所からはほんの7,8分の歩きだ。三鷹駅から歩くのとは比較にならない。バス代210円なり。

糖質制限について

ダイエットやカロリーなどのキーワードで調べていたら、糖質制限というのに行き当たった。これは本来糖尿病患者のためにプログラムされた食事法だが、カロリーよりも糖質を押さえることによりダイエットにもきわめて効果的だそうだ。


いっぱい食えて、酒も飲めて痩せられるなんて、飛びつきましたがな。
理屈はこうだ。(以下抜粋)

人はなぜ太るのか?一つには、人類の食の歴史。糖質、脂質、タンパク質の三大栄養素の中で、糖質(穀物)を主食とするようになったのは、せいぜいここ1万年ほどにすぎないということ。約400万年という人類の歴史からすれば、ごく最近の食生活の変化ととらえることができる。
 
つまり、糖質を摂取することに対して、生理的にも備えがないということである。次に、人類がエネルギーを消費するメカニズム。エネルギーの源は、糖質、脂質、タンパク質だが、タンパク質は体をつくるための素材となるので、主として糖質と脂質がその役目を担っている。


肝臓や筋肉に蓄えられたグリコーゲンは、必要に応じてブドウ糖に分解され、エネルギーとして取り出される。糖質が日常的に潤沢にあると、体はまず糖質から使おうとするようになって、脂質を使う回路が働きにくくなってくる。それが脂肪の蓄積、肥満へとつながる構図なのである。


そこで、糖質を減らした食生活を続けると、体は脂質を使おうと回路を組み替えてくる。脂肪が消費されやすい体になるということである。


引用を続けると一冊の本になってしまうのでやめるが、適度な運動と穀類や甘いものを減らせばカロリーに神経質にならなくても楽に痩せられますということだ。日本酒やビールは糖質が多いが焼酎は糖質が無くエンプティカロリーなのでダイエットには問題ないと書いてある。ダイエットのため酒が飲めぬのはつらいが、これならできるぞ。

現在約40日経過したが、全く運動らしいものもせず糖質だけは意識的にさけて普通に飲み食いして約3㎏体重が落ちた。これで運動が加われば、腹筋が6パックに割れるのも時間の問題だと、まではさすがに厚かましくて言えぬがもう少しは絞れそうな気がしてきた。





2011年10月21日金曜日

三鷹散歩

平成23年10月21日(金)くもり

昨日は家から店までの往復を歩いた。ふだん主にバイクや車での移動ばかりで、二足歩行による長い距離を歩くことがない、むろん四足歩行もしませんが。

当然、若い頃と違い基礎代謝の低下も加わり、体重がデラックスになってきたのを自覚せざるをえない。

先日家の体重計をタニタ社の高機能体重計に買い換えたとき、体脂肪他、諸々の数値を見て、これはイカンと思い少しは気にし始めた。

で、糖質制限をしたりしてある程度しぼったのだが、停滞気味になり、やはり体を動かすという鉄板ダイエットに行き着かざるをえなくなった。

人間明日の命の保証は無いのだから、今日一日食いたいものを食って飲みたいものを飲んで満足して生きれば良いという一日快楽主義的なレトリックも用意してあるが、風呂場の鏡で己の裸身を見てがまの油じゃないが、脂汗がでた。(出てないけど)

私はアンチエイジングやアクティブエイジングなどには興味無いが、自分の体が重く感じるのは実感なのでこれ以上デラックスになっては体調を損ねかねない。調子悪いのは誰でもいやなものだ。

時間を割いて運動というのは長続きしそうもない。そこで思いついたのが「家と店往復徒歩作戦」だ。
家のある三鷹大沢から店のある三鷹駅周辺まで5キロちょっと往復で10キロこれはいけると直感的に思う、片道1時間くらいだからちょうど良い有酸素運動だ。

歩いてみて思ったのだが、本当に歩いていなかったと思う。まず歩きは考え事が出来る、と言うか、ひとりでに考え事をしている。車やバイクでは考え事は出来ない、運転に神経を使っているからだろう。
実際車を運転中に落語を聞いていたらいつのまにか終わってた事がある。

車が入れぬ細い道も使える、一方通行、進入禁止を入れる、当り前のことがふだん歩かないので新鮮に感じた。毎日というわけにはいかぬが継続は力なり。

東八道路整備が進む



野崎八幡





井口八幡

水分補給(笑)


カロリー糖分ゼロ

中央線北側武蔵境方面→三鷹方面高架

太宰治にゆかりの跨線橋

跨線橋より三鷹方面

跨線橋より武蔵境方面



2011年10月20日木曜日

禅林寺

平成23年10月20日(木)くもり

三鷹駅の南口から南に一キロほど下がると禅林寺という黄檗宗の寺がある。この寺は太宰治と森鴎外の墓があるので有名だ。

永井荷風の日記「断腸亭日乗」にも荷風が鴎外の墓参りをする下りが荷風本人筆のイラスト入りで書かれている。

境内の奧の一角に墓所があり、二つの墓は少しハスであるが向かい合うように建っている。太宰のほうは傾向的に昔から女性に人気があり、今でも墓前に花が絶えた事がないそうだ。確認はしてないが。

森鴎外の墓は、森林太郎墓と刻まれただけの簡素なものだ。これには説明がある。山門わきに遺言碑があり、「余ハ石見人森林太郎トシテ死セント欲ス(中略)墓ハ森林太郎墓ノ外一字モホル可カラス」と刻まれている。軍医としても作家としても優れた業績を世に残した偉人であるがゆえの謙虚な潔さに明治期の骨太の人格を見る。


太宰は確かに人気作家だっただろうし、今でも多くの人に読み継がれている。
しかし、その人生の破滅に向かうぐだぐだぶりは痛ましい。酒と薬に溺れ、女性遍歴を繰り返し(うらやましいが)、最後は玉川上水に女と入水自殺して後始末をした地元や警察にやっかいをかけた、ダメ人間の典型だ。


ただ彼が人生の敗者かと問えば・・・私はそうは思わぬが。


ある年の桜桃忌


昭和2(1927)年に向島の弘福寺から三鷹の禅林寺に移された






2011年10月18日火曜日

2011年10月18日(火) はれ

笑門という店名を思いついたのは15年ほど前、私がまだ青山の会社でフレンチレストランに勤めていた頃だ。近所に「湖月」という小さな和食の名店があった(今はミシュランの☆☆二つ星だ)。

で、この「湖月」の玄関の格子戸の上、住宅であれば住人の名が標された表札の位置に、笑門と書かれた木の小さな表札がさりげなく飾ってあった。店名の看板とは別にお客様が最初に店をくぐる玄関に置かれたこの一枚の木片に店主の粋な心が伝わってきて感動した。店が目と鼻の先の近所だったので大将や女将さん、当時いた若い職人さんとはそこそこ親しかったが、感動した話は口にしていない。

以来、もし自分が個人店を出すことがあればこの名前を使わせていただこうと思っていた。
それが、三鷹の地で現実となり早10年、もうフレンチの世界からは仕事としては遠のいてしまった。
それでも、「笑門」の正面看板の右横にフランス語で「Le Portebonheur」とシャレで入れてある。
これは(幸せを運んでくるアイテム)みたいな意味だ。笑う門には福来たると通ずるものがある。


2011年10月14日金曜日

10月14日(金)くもり時々晴れ

きのうは6時半くらいから、お馴染みさん以外のお一人のお客様が多いなと思っていたら、その中のお一人が、電車が止まってるんだよと教えてくださった。なるほど!

ひとりでいる時、座る店に振りの客として入るのは私だって入りにくい。ましてや電車運転再開待ちで長居するつもりが無い時にはなおさらだ。立ち飲み屋をやってて良かったと思う。行きずりのお客様同士でほんの短い間だが会話が成立する。

私が立ち飲み屋をやっているのは、自分がそういう店が好きだというのが大きい。新橋や神田のサラリーマンの聖地には有名な立ち飲みが沢山ある。新橋駅地下の「吟」、神田の「味の笛」などは私もファンだ。さっと飲んで5分で店を後にすることもできるし、苦にならなければ長居してもかまわない、自由度の高さも粋じゃないですか。

立ち飲みにも色々あって、以前の場所の赤羽「いこい」は、トイレに張り紙があって、使用禁止と書かれていた。要は小便したくなるまで飲むなという暗黙の決まりらしい。この店はおやじさんがすごくて
お客がカウンターに立ったとき

おやじさん「そこじゃなくてこっち」

お客「すぐ帰るから」

おやじさん「すぐでもこっち!」

柔道の審判のような指導がくるのだ。多分常連さんとのやりとりなのだろうがいい味だしている。
私も以前、友人とお邪魔した時、テーブルにとまったら

おやじさん「そこ、並ばないで向かい合って立って」

ご指導いただきました(笑)。今は近くにお店を移転されたと聞いた。

今日は朝方は晴れていたが次第に雲が多くなってきた。予報では夜遅くになって降り出すとのこと、帰りは雨だろう。

2011年10月12日水曜日

10月11日(晴れ)

今日は三連休明けで営業日なのだが、月のうち二回アルバイトのお姉さんに入ってもらっていて、悪いが私はお休みさせていただいている。

高校時代からの長い付き合いの友人と中野で飲んだ。

中野は南口の更科という蕎麦屋だ。この店は時々使わせてもらっている。パチンコ屋が向かいで、こぢんまりした店だ。二階に、小上がりの座敷があり何時間でもいられてくつろげる。



連休明けということもありすいていた。鴨焼きや天ぷらを食べ焼酎を二人で一本飲んで結局つまみだけで蕎麦は食べずじまいだった。この店に来るといつもこうなる。

一階のいす席ではこうも腰を据えて飲むというわけにはいかない。なにせ本来は蕎麦屋さんなので軽く飲んで〆に蕎麦をたぐるのが粋なのだろうが、友人のJ尾君も強いので飲み屋感覚で使っている。お店の方、いつも蕎麦を注文せずごめんなさいね。

2011年10月10日月曜日

10月9日(晴れ)

今日はカミさんと高幡不動に行くことにした。神社仏閣巡りが趣味ではないが、嫌いでもない。
私は三鷹の大沢に住んでいる。近くに深大寺があるが、そこは何度も訪れている。天台宗の大きなお寺だ。

高幡不動は訪ねたことが無かった。昼前バスで京王線の調布まで行き、下りの電車に乗る。およそ15分で到着。
高幡不動駅前
大きな駅で驚いた。昇降のエスカレーターが二本ずつの複線で動いている。高幡不動は駅を出て右手にすぐ参道があり歩きでほんの二三分だ。
正面の仁王門

ちょうど、不動堂で護摩を焚いているところだった。













震災後点検と化粧直しを終えまもなく足場が取り除かれるとの事

広い境内には四国八十八カ所のミニコースがある。次はぜひ歩いてみよう。
初めてこのお寺を訪れたがこんなに大きい立派な寺院とは知らなかった。関東屈指の名刹が、わりと身近にあったのだ。上の本尊、不動明王像は平安後期のつくりで国の重文に指定されている。
3メートル近い大きさで見るものを圧倒する迫力だ。

3時過ぎ帰宅、ちょうど競馬をやっていて京都大賞典で、脱力系馬名No1の「ネコパンチ」が出走していたので、にんじん代と思い一番人気のローズキングダムとのワイドで1000円だけ買ったがやはりG1クラスが相手では、しょぼ~んだった。まあいいか。

2011年10月8日土曜日

開店10年目

平成23年10月8日(土) 晴れ

この11月で三鷹の地で立ち飲み屋を始めて10年になる。
これも一つの区切り、記念として店ブログを書いてゆくことにしよう。

笑門のお客様は、リピーターが多い。常連とか固定客といった乾いた表現では何かそぐわなくて
「お馴染みさん」が一番しっくりくる。開店以来の古いお客様も複数いらっしゃる。

開店当時私は、まだ会社勤めの二足の草鞋だった。その会社は青山を中心に都心にフレンチレストランなどを5店舗展開する小規模であるが活気のある会社だった。名ばかりの取締役ではあったが
商法上、役員が同業種を個人的に起業する事は問題があるのだが、役員会の承認を得て開業した。

若い頃はホテル勤務、所帯をもってからは青山の「ポワロー」というフレンチレストランで80年代半ばから90年代にかけてバブル華やかな時代を過ごした。といっても世の中が華やかなだけであって、自らの生活が華やいだわけではない。

なぜフレンチから立ち飲み屋に変身したか?

答え 自分が入って飲みたい店を作りたかった。

まあ単純なもんだ。都心で妙にすました仕事をしていると、自分じゃなくなるのだ。
人は仕事や家庭、友人などそれぞれの場面、状況でその立場の役割を演じて生きているのだが
誰だって人知れず疲れていることはある。飾らずにくつろげる空間が人には必要なのだ。

そんな思いを込めて「大人の酒飲みのサンクチュアリ(聖域)」を目指した。店の内装もあえて手を加えず極力気取りを排した。もちろん手を加えようにも予算がなかったが(笑)。

昭和の家庭の茶の間の雑然とした安心感、これです、これ。目指したのは。

10年やってきて、まだまだ足りない面が多いと思うが色々な方と知り合えて楽しい日々だ。

ありがたいことに笑門はものすごく客筋が良い。みなさん紳士的で、いや、もとい、みなさん紳士でお店としては本当に感謝しております。