三月も最終週になって一気に気温が上がってきた。これで桜も遅れを取り戻すだろう。最後の直線でしんがりから怒濤の追い込みヒカルイマイみたいだ。自分で何を言っているのかよく分からぬが(笑)。
競馬は40年近く前ハイセイコーの頃少し遊んでいたが元々ギャンブル好きではないのか、いつの間にかやらなくなっていた。去年の四月から二足の草鞋をぬぎ、今の「笑門」だけの生活になったので土日が人並みに休めるようになった。以来競馬を毎週ちょっとだけ遊んでいる。
最近では、阪神大賞典のオルフェーブルや日経賞のネコパンチなど競馬場にいるファンの悲鳴に似たどよめきが起こるレースがあったり話題が多く面白い。競馬で儲かればうれしいがそのような才能は無いことが判っているので一回の投資額はせいぜい三千円だ。それでも賭けているのといないのとでは昂奮度が全く違う。外れた時の虚無感と喪失感、当たった時の快感と高揚感はギャンブル独特の刺激である。
作家の山口瞳がエッセイ『酒呑みの自己弁護』のなかのタイトル「競馬の予想」で書いている。周りの予想に反する馬を予想し、見事その馬がくるのだが、惜しくも僅差の二着で、競馬の予想に的中して馬券に見はなされたときの事だ。
それで満足している。なにも「敗北の美学」なんてキザなことを言うつもりはない。納得のゆく負け方であればいい。
しかしながら、やはり大金を失ったという空虚感が残ってしまう。この場合、たとえ失った金が一万円か二万円であったとしても、三十万円ぐらいを紛失した感じになる。
私は冷静でいるつもりでも、どこかで昂奮している。満足と落胆が共存する。こうなれば飲まずにはいられない。
こういうときは一人で飲む。なにか、しみじみとした、不思議な味の酒になるのである。「勝っているのに負けた?」私は自問自答をくりかえしている。
この『酒呑みの自己弁護』という本は昭和48年三月初版で私は九月六版を二十一歳で購入している。本は購入したものを全て持ち続けていれば一部屋書庫がいるほど買ったが、ほとんど処分して今は少ない。その中でこれはカバーも無い状態だが今でも残してある一冊だ。三十九年前の本である。
夕刊フジに連載されていたコラム集、山藤章二の挿絵が素晴らしい |
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