きのう山城だった八王子城跡に行った。テレビで時々紹介される兵庫県但馬の竹田城跡は「日本のマチュピチュ」などと呼ばれ観光客が押しかけて地元では有り難迷惑の部分もあるようだが、八王子城跡は静かなものでボランティアガイドのおじさん達は暇そうだった(笑)。
山城といえば、最近岡山県の高梁市(たかはしし)にある備中松山城もテレビで取り上げられるようになった。ここも気象条件によっては雲海の上に浮かぶ天空の城として注目されている。
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備中松山城(ネットから借用) |
山田方谷(やまだ・ほうこく)という名前を知っている人は少ない。この人物は幕末の備中松山藩の財政改革の立役者なのだが、維新転回で幕府方であった備中松山藩は賊軍とされたため、山田方谷の成果も名前も敗軍の常として歴史の表からは埋没してしまっている。
七年前偶然にその名前を知り、少し調べてみると、残した業績の大きさは桁外れで、今までどうしてこれほどの人物を知らなかったのだろう、と思い現地に脚を運ぶきっかけになったのだ。
財政改革といえば米沢の上杉鷹山が有名だが、上杉鷹山の改革は鷹山の死後も長くかかっており、比べてみると山田方谷の改革は破綻していた備中松山藩の経済をたった八年間で立て直し、さらに大きな蓄財を残す業績を残している。鷹山は殿様だったが、山田方谷の出身は農商上がりの学者という異例の抜擢人事がもたらしたひとつの奇跡である。
幕末の備中松山藩藩主は板倉勝静(いたくら・かつきよ)といって寛政の改革者、松平定信の孫にあたり勝静は、徳川幕府最後の将軍慶喜に仕えた最後の老中である。
長くなるのでここで止めるが歴史に埋もれた山田方谷という巨人が存在していたのである。
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手許に残っている資料 |
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岡山市立図書館に出向く熱の入れようだった |
城下と高梁川 |
現存する天守 |
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ベンガラの町・吹屋 |
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