平成25年1月17日(木) 晴れ
昨年の初夏以降このブログであいまいな表現でしか書けぬ事を抱えていた。それは先日の記事に「通奏低音」という言葉を借りて表現した。それはいつか終わることではあったが、それが今日現実のものとなった。
高円寺の友人J尾が亡くなった。
実は昨年六月、中野の警察病院で直腸癌+転移肝臓癌に罹っていることが判明し、八月に人口肛門(ストーマ)手術を受け、状態が安定した九月になり退院した。
彼は生涯独身だったので、その時点では先行きが見えぬため、高円寺のマンションを全て引き払い、生前に自ら遺品整理をした。そして九月の退院から三鷹の私の家で療養することになった。
抗がん剤治療が始まり、二週間に一度二泊三日の入院治療のため三鷹と中野を車で送り迎えをした。このあたりの経緯がすべて書けなかったのだ。
血縁者としての親族、ご兄弟はいらっしゃるが、独身であった彼の世帯に家族はいない。なので10月の彼の還暦をわが家で祝った事、今年の正月をみんなで楽しんだ事、良い思い出になってくれた事と思う。
今月四日になり体調を崩し再入院した。そのとき初めて別室で主治医から病気の経緯を詳細に伺うことができた。それまで私の立場は「友人」であり親族以外には病院側から教えてくれることはなかった。その先生から昨年六月時点で、すでに転移のある肝臓全体が癌に侵されていて、切除不能であり全治の見込みは望めない極めて厳しい状態だったことを明かされた。
そして「残念ですが今月を越せることは叶わぬ事をご承知ください」と明言された。
覚悟はしたが、その日眼前にいる彼はまだ気力があり試練に立ち向かう姿勢が見えていた。
さきおととい大雪の月曜日、神戸から見舞いに来てくれたM子さん、Aさんに、また飲もうと口元で人差し指をひっかける仕草をした。まだ大丈夫だろう、いや奇跡的に回復するかも分からないとさえ思わせた。
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1月17日雪の残る警察病院周辺 |
今日は軽い気持ちでいつものように昼前病室を訪ねると、あっ、と思った。様子が一変している。心電図モニターがフラットになっており、瞳も開いたままだ。医師と看護師が待っていて私が臨終確認の立会人になった。親族の方もこちらに向かっていると聴くが、私も間に合わなかった。
彼とは同い年で高校時代より四十数年の付き合いがある。彼は大学時代から自主映画制作に取り組み、卒業後は映像関係の世界に入った。その後自ら会社を興し、彼自身もプロのビデオ報道カメラマン、ドキュメントカメラマンとして世界を駆けてきた。
そして今日、彼はその長い旅を終えた。
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あるじ無き世界を駆けた伴侶 |
J尾よ、死んだのか?本当に死んだのか、先月逝ってひと月も経たぬOとその辺で再会したか?ふたりで手招きするんじゃないよ!頑張り屋だったからなあ、辛くても絶対弱音を吐かぬ愚かしいまでの誠実さで人に向き合ってきた。もうゆっくり休め。こちらでは今仲間に声をかけた。土曜日はちゃんと骨は拾ってやる。その後君の写真を前に一杯やろう。