「最近プライムなんとかとコーヒーとキーボードの写真に行って、あと新聞の写真のワンパターンでブログがつまらない」
定期的読者の方にも「そうそう、また同じかよ」と言われると思うが、「また同じかよ」でも「佐藤かよ」でもかまわない。このネタは前に「また野川散歩かよ」で一度使ったことがある(笑)。
マンネリパターンを指摘されたので、今日は休みで時間もあるし外は雨降りだし、少し「老い」について考えてみた。
私は今年の8月で65歳になる。いわゆる高齢者の仲間入りである。少し前に今の中高年は若いので高齢者と呼ぶのは10年後にずらして75歳からにしようという話があったがそれは置いといて、まずは8月から私は高齢者ということになる。
今、私がダイエットしているのは実際動くとき体が重く感じられるのを解消したいというのが一番の理由だが、もうひとつは65歳から高齢者という社会的に線引きされた節目を迎えるにあたり、一度すっきりした体にリセットしておきたいという想いも強いのだ。
そして自然に歳を重ねてゆきたいのだ。
老醜という言葉があるが、老いるということは惨めで醜いことなのか?老いるということに無力感を抱き無残な想いを感じ、それに抗うのは悪いこととは思わないが、例えば美容整形などで、老いという自然に逆らうのは非常な無理をするわけで、お金がある人は勝手にすればよいが、衰えて隠したい部分を整形などで誤魔化そうとすればするほど、かえってその老いた部分が強調され目立ってしまうというパラドックスに陥る。
極端を言えば若返りの整形を繰り返した晩年のエリザベス=テーラーを美しいと思う人は洋の東西を問わず多くはないだろう。
比べてシワも日焼けもそのままで晩年をボランタリー活動に捧げたオードリー=ヘップバーンは素敵に歳を重ね美しく亡くなった。
一番輝いていた若いころの残像と今を重ねるから、歳は取りたくないと思うが、それを嘆いて愚痴をこぼしたところで、また少々鍛えたところで若さが戻ってくるわけではない。
若さの輝きには勢いというものがあり、ヒトも大きくは地球上の自然界の生き物であるから当然その摂理の下で生きている。若さというものは自然に逆らった少々の無理でも押し切ってしまうだけのエネルギーに満ちているのだ。無理が利かなくなる歳になり、ようやく若さというものの源泉の強さが解るようになる。
人は好きで老いてゆくわけではない。90歳を越えても足腰のしゃんとした人もいれば、50代で要介護の人もいる。それぞれが自分に与えられた肉体と最期まで付き合うしかないのだ。それを受け容れるしか方法はない。そのためには少し気をつけてメンテナンスをしておこうと思ったのである。
谷崎潤一郎の『陰翳礼賛』にあるように、古来、東洋的な感性にはピカピカ光るものを「浅い冴え」と感じ内側から鈍く光を放つもの、一見手垢がついているように見えても磨き込まれた深い輝きがあるものが好まれてきた。宝石にしても玉(ぎょく・翡翠)など少し濁りの入ったものに雅味を見いだしてきた。
昨年秋に富山の田中君と行った善光寺の手すりを想い出した(笑)。
長野善光寺・真鍮の手すり |
財はなくとも、自然に年輪を刻んだ味のあるジジイになりたいとは思う。
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