今日は長崎原爆の日であり、母の祥月命日でもある。花を供え仏壇に灯を入れ線香をあげる。信心深い先人達には叱られると思うが、実は毎日欠かさず仏壇を開けているわけではない。
その言い訳じみた後ろめたさは、亡き祖母が毎朝毎夕、欠かさず水を替え、お供えを替え、経を上げ仏壇に礼拝していたことを子供ながらに見続けていた事に由来すると思う。
母もそれに倣って般若心経を空で唱える程度の習慣はあったが、明治生まれの祖母に比べ大正生まれの母は幾分ドライであったような気がする。
今、私の家にあるのは仏壇といってもコンパクトな縦横奥行き60㎝四方くらいで、動かそうと思えば簡単である。こういうことは習慣的なものだから普段から玄関の近くなど目に付く場所に置いて、誰かが通るたびにささやかな、数秒でもよいから祈りを捧げれば毎日の功徳になると思う。実現するかどうかは心許ない。
外国と比較して言われることに「日本には信仰(Believe)はあるが、宗教(Religion)が無い」という解釈は概ね首肯する言葉でもある。
「困った時の神頼み」はもちろん、「鰯の頭も信心から」や「便所の神様」など日本の信仰は大らかで他者の信仰にたいしては排他的ではない。
いかん、ここで語り出すとややこしくなるので中止する。
明日から夏休みに入るのでブログ更新が不規則になると思う。
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