zzzzzz・・・はっ、と起きたのが9時だった(笑)。おまけに昨晩帰宅してから、遅くまであれこれ録画を観ていたらつい飲み過ぎてしまった、のが起きてからの体のだるさで判明する。この起きてから判るというのがいかんなあ。もちろん山歩き中止である。
新聞で高校野球東東京大会で二松学舎附属高校が優勝したことを知った。これまで決勝に十回駒を進めたが一度もその壁を破れず、この度とうとう悲願の甲子園行きを果たしたそうだ。
この二松学舎には、ある感慨がある。以前このブログで触れたことがあるが(今年6月20日記事)幕末の備中松山藩(現岡山県高梁市)の財政改革を成功させた巨人、山田方谷の一番弟子であった三島中洲が二松学舎の創立者である。
二松学舎HPより
三島中洲(ちゅうしゅう)名は毅(き)、字は遠叔。天保元年、備中窪屋郡中島村(後の中洲町、現在の岡山県倉敷市中島)に生まれた。
11歳から学問を志し、14歳で儒学者山田方谷の門に入り陽明学を学んだ。さらに斎藤拙堂のもとで見識を深め昌平黌において佐藤一斎に学んだ。
30歳の時、備中松山藩に仕え、幕府老中でもあった藩主板倉勝靜とともに激動の幕末を経験した。
明治維新後、新政府の命により上京、新治裁判所長、大審院判事(現在の最高裁判所判事)を務めた。
明治10年、官を辞し「漢学塾二松学舎」を創設。多くの子弟を育成し、漢学・東洋学の発展に尽力した。のちに東京高等師範学校教授・東京帝国大学文科教授・東宮御用掛・宮中顧問官を歴任した。
引用終わり
個人的には二松学舎には何も関わりはないが、山田方谷という人物を研究していて出てきた三島中洲の名とそこから派生して覚えていた知識、二松学舎の名前は印象にある。そういえば夏目漱石もここの出だった。何か取っ掛かりがあるほうが、応援のし甲斐があるというものだ。が、その分負けた時の落胆の幅も大きい。表裏一体である。
朝昼兼でスパゲティを茹でる。ソースはレトルトのミートソース。
横浜で買った「油辣椒」をかける。見かけほど辛くないのでタバスコよりはるかに相性が良い。
店に出てから開店前、バタバタしていて賄いを食べる時間がなくなったので、慌ただしく卵かけご飯だけにして搔き込む。
慌ただしいのに写真だけはしっかり押さえるのがブログを毎日続けている習慣のなせる術である。
卵かけご飯といえば、最近人間国宝になった、柳家小三治の噺に「卵かけご飯」というのがある。小三治さんの古典はもちろんだが、この創作系のトークショー話は抜群に面白い。21分なのでどうぞお付き合いください。
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